沿革(鈴研のあゆみ)

創業明治39年 鈴研のあゆみ

1906年(明治39年) 3月4日、初代鈴木惣八、日本橋において理化学用硝子分析器具を製作販売する。
1927年(昭和2年) 4月、合資会社鈴木科学器械製作所に改組。
1950年(昭和25年) 5月1日、営業の一部を鈴研株式会社に移動し、水分析製造、販売を開始する。
1952年(昭和27年) 鈴木科学器械製作所を解散し、鈴研株式会社に合併し、現在に至る。
2005年(平成17年) 12月、Tintometer(R)グループ Lovibond(R)社と業務提携 

明治の頃 初代 鈴木惣八

初代 鈴木惣八

明治39年3月4日、創業者である初代鈴木惣八が奉公先であった倭屋号森川商店(現ヤマト科学株式会社)よりのれんをうけ、東京府日本橋区本銀町1丁目(現在の日本橋本町)に鈴木商店誕生。
初代惣八は当時26歳、二番目に独立をしたため主家より「やまだい二」ののれんをいただく。

大正の頃 総合理化学機器メーカーとして

大正8年日本橋本石町(現在の室町三丁目交差点角)に木造3階建ての店舗を改装移転。このとき店員数は30名。
大正10年平和博覧会にガラス繊維を出品し、時の皇太子殿下(昭和天皇)よりご下問にお答えする光栄に浴した。同時に発売したpH計水素イオン濃度比色測定器は後の朝鮮博覧会にて最高賞を受賞する。

昭和初期の頃 グラスウールの先覚者として

初代惣八は東京玻璃器商同業組合(現東京硝子製品協同組合)第八代組合長に就任、その他東京理化学器械同業組合(現東京科学機器協会)設立に尽力し、医科、理化、硝子三組合の役員を歴任。
当時の世相は第一次世界大戦勃発と共に各種輸入品の入手が不能となり、当時ドイツより輸入されていた織物用ガラスメイロン(目硝子)等も同様入手難となった。そのため、その国産化の必要が急務となったのでこれが製造に着目、製法の研究に努力、種々苦心の末ようやくその製造に成功した。事業は最盛期を迎える。

昭和中期の頃 2代目惣八、趣味人として生きる

二代目 惣八

初代惣八急逝後店を継いだ二代目惣八、日本理化学機器商工会(現日本科学機器協会)理事を務めるかたわら、東京アマチュアマジシャン倶楽部幹部となる。本業以上の活躍を見せ、宮中へ参内しその至芸を天皇陛下にお目に掛け、お褒めの言葉をいただく。奇術愛好家には店の商品を二つ返事で特別割引販売したという。その他骨董、美食、お座敷遊び等趣味の限りを尽くす。
この頃、本業である理化学機器業は急速に業績悪化。

戦後~

  • GHQの指示の元、測定器を開発
    残留塩素測定機
  • pH(水素・イオン)測定機
  • 水質測定キット

第二次大戦後GHQの進駐に伴い、日本国内の水道水塩素消毒が徹底された。当時のGHQはお墓にお供えされた花瓶の水さえも、ボウフラ対策として塩素消毒を検討するほどの徹底ぶりであった。
この頃より水質測定器や浄水器等、理化学機器の中でも水質関連に特化した商品を展開していく。

以後、様々な水質検査器を開発・販売し現在に至る